「祈ってくださる主イエス」  05.04.24
                  ヨハネ17:1〜26

 今年の教会標語を昨年に続けて「祈り、祈られる人」としました。
 そこで考えられる「祈りの交わり」において、まず心に留めるべき
ことは、自分が祈られているということです。
 祈られること無しに洗礼を受け信仰生活をはじめた人も、祈られる
こと無しに信仰生活を続けている人も、一人もいません。
 自分の信仰生活が、兄弟姉妹の祈りに包まれていることに敏感で
いたいのです。そこに感謝の生活が生まれます。
 また、主イエスが、自分のために祈ってくださっていることを知らされます。
 主イエスは、弟子のペトロにおっしゃいました。「あなたのために信仰が
無くならないように祈った。」(ルカ22:31〜32)信仰がなくならないように
祈ってくださる主イエスです。私たちがペトロのように失敗をしても、主イエスの
十字架による赦しを信じる信仰によって、失敗から立ち直り、赦された者として、
もう一度進んで行けます。

 今日のみ言葉にある、主イエスの祈りの言葉に、私たちは包まれています。
 この祈りで、主イエスからの弟子たちの見え方に注目したいのです。
 そこに、主イエスからの私たちの見え方もあります。
 祈りの中で主イエスは弟子たちのことを、「彼らは、御言葉を守りました」(6)、
「彼らは、本当に知り、信じています」(7.8)、「わたしは彼らによって栄光を受け
ました」(10)とおっしゃいます。弟子たちにこのような姿があったでしょうか。
それとは、正反対の姿ばかりでした。しかし、十字架にかかられる直前の
主イエスは、この時、ご自分の十字架を通して弟子たちを見ておられたのでしょう。
 十字架を通した時に、弟子たちの失敗等はもう見えないのです。
 十字架によって拭い去られてしまったからです。主イエスからは、プラスの
部分しか見えないのです。実際は、プラス評価をされる部分もほんのわずかでしょう。

 しかし、
からし種一粒の信仰を、大きな信仰とみなしてくださるのが
主イエスです。
 主イエスの祈りを真似ながら、祈りの交わりを深めたいと思います。